コンセプト深堀インタビュー#01|立ち上げの背景
ブルーオーバーがコンセプトを刷新。その理由と意味を掘り下げる…
デザインや機能を気に入ったから、物を買う。それがわたし達の普通でした。だけど、その普通が今変わりつつあります。例えば、いくら便利でも、オシャレでも、必要以上に大量生産して、余らせた物を漫然と捨てていたら? 物自体のデザインや機能を気に入っても、ブランドのバックボーンやビジョンが肌に合わなかったら、買わない。それがわたし達の次の普通になっていく。そんな気配がします。
だからというだけではありませんが、設立10年を迎え、ブルーオーバーはコンセプト文を新しくしました。理念はそのままに、より詳しく説明したという方が適しているかもしれない、新コンセプト文。そこには、ブランドの背景や物作りの考え方、そして履く人と共有したい思いを込めています。
【コンセプト全文】
このコンセプト文、なんと2500文字以上あります。タイトルにもありますが、コンセプトにしては長すぎる!というほどの長文ですが、実はできる限り簡潔まとめてこの字数。そんなところからも既に、この文章に込めた思いの丈が伝わるかと思います。一方、簡単にまとめるために触れられなかった部分も多くあります。
なのでこのコンテンツでは、コンセプト文を少しずつ参照しながら、ブランドコンセプト文を執筆したデザイナー渡利にスタッフ江川が質問して、内容を掘り下げていきます。
人物紹介
渡利(ワタリ)
ブルーオーバーの発起人であり、デザイナー。たまの趣味は木彫り。愛車は初代ホンダシティE-AA。
江川(エガワ)
ブルーオーバー / ストラクトのスタッフ。休日は手芸を楽しむ。作った物をすぐ使えると嬉しい。
江川
ブルーオーバーのコンセプト文、書いて、編集してを繰り返してようやく完成しましたが、どうにか読みやすい長さの文章に整えるために、端折ってしまった部分も多いですよね。その部分もまるっと伝わるように、文章の意図しているところを要所要所、執筆者である渡利さんに質問していきたいと思います
渡利
はいー!よろしくおねがいします
江川
では、早速コンセプト文の原文を参照していきましょう
はじまり
ブルーオーバーは大阪で生まれたスニーカーブランドです。私(渡利ヒトシ)はフリーランスとしてプロダクトデザインの仕事を請負う中で、製品開発、消費のサイクルに疑問を持ちはじめていました。
江川
早速質問なのですが、プロダクトデザインという言葉を直訳すると「製品のデザイン」ですよね。具体的には、どんな物をデザインしていたんですか?
渡利
よく手掛けていたのはスポーツ用品や家電製品ですね。当時はUIUXといった言葉は少なく、いわゆるハードウェアと言われる製品の外装を主にデザインしていました
江川
スポーツ用品と家電、実はどちらもプロダクトデザインの広い領域の中にあります。一聴すると同じデザイナーが手がけるにしては分野が離れていて意外な感じもしますよね。…こっちの方向に話しを広げると脱線するので本題に戻るとして。
そういった製品を手掛ける中で消費のサイクルに疑問を持ったと
渡利
やっぱり、商品を購入してもらうために、企業は毎年刺激的なモノをうみださなければならない。その理屈は十分に理解できるし、ある側面ではそうあるべきだと思うんですけど、そのサイクルだとモノをうみだす行為が瞬間的な消費をうながしてしまうんです。そうなると、表面的な化粧としてのデザインが繰り返される状態になりやすく、本当の価値を持ったモノが生まれにくいし、理解されにくい土壌になっていくなぁと思ったんです
江川
なるほど。確かにわたしも、「物」自体が古くなったわけでもないのに、中身はそう変わらない新しいものがどんどん出てきて、相対的に以前つくられた物を古く感じる。そのサイクルが常態化していることに疑問を感じてしまいますね…
…さらに、国内の製造工場の衰退を目の当たりにし、2011年に自らの身をそのサイクルに投じることで変化を起こすことは出来ないかと、ブルーオーバーを立ち上げました。
江川
2011年にブルーオーバーを立ち上げた、というのは何か契機になる出来事があったのでしょうか?
渡利
2000年代当時、不景気のあおりを受け、マーケットのコスト競争が厳しくなる中、多くの靴メーカーはアジアにシフトしていきました。それが更なるコスト競争を呼び起こし、より消費的なサイクルを加速させて、国内に残った小規模の工場はますます厳しい状況に追いやられる傾向になった。最終的に、これまで国内で作り続けていた小さな工場の撤退や廃業が増えることになります。それを目にしたのが一つのきっかけですね
江川
ブルーオーバーを立ち上げる以前から、そういった小規模な靴工場との繋がりがあったんですね。さっき言っていたスポーツ用品を作る工場がそれにあたるのでしょうか?
渡利
そうですね。大小さまざまな工場に出入りはしていました。そこで直接職人さんと話をしたり、工場の社長さんとも話をしました。あと現場の空気感なんかでも、前述のような状況を感じることができました。そんな生産の背景を目の当たりにしたこと、そして自身がフリーランスという立場としてやれること、できることは何か。そんなことを考えてると、自らが地場産地に対してアクションが起こせないかという考えが生まれたんです。その結果がブルーオーバーだったというわけ
江川
そうやって誕生したブルーオーバーだからこそ、10年間ずっと日本製にこだわってきているんですね。
さて、次は章をうつってブルーオーバーの靴作りの背景についての部分を読み進めます
靴作りの背景
靴という製品は、アッパー、底材、紐、中敷といった多くの資材で構成されており、そのどれもが小規模なマニュファクチュアでの分業体制をとった製造工程をたどります。…
江川
これってつまり、平たく言うと…
渡利
アッパー、底材、紐、中敷、全部違う場所で作っているってことですね
江川
作っている「場所」が違うというのも勿論ありますが、一つの大きな会社が色々な場所に工場を持っている、ということではなくて、それぞれ運営している人や会社自体が異なるってことですよね?
渡利
そうです。更にアッパーで言うと、材料であるレザーを売っている会社、そしてその材料をアッパーの形に加工する会社も違います
江川
それが更に、ソールならソール材を売っている会社、加工している会社、とそれぞれに派生していく。コンセプト本文に書いてあるよりも、本当に沢山分業されているのが靴作り。
靴って本当に手間暇がかかってるな~…
あとつぎ問題や高齢化、海外でのコスト競争などさまざまな理由から、完全に日本国内のみでスニーカーを生産することは困難となってきていますが、ブルーオーバーはできる限りの資材を国内で調達し、製造を行っています。決して大きな規模感ではありませんが、工場同士の繋がりや地域の結びつきを活かしながら、国内の製造現場を失わないようにしていきたいと考えています。…
江川
中々、コンセプト文の中では触れにくかったところだと思うのですが、完全に日本国内でのみスニーカーを生産することは困難となってきている、というのはどういったことが理由にあるんでしょう?
渡利
困難の理由は、端的に言うと「国内で靴を作って売ってもお金にならない。だから業者が増えずに消えていくほうが多い」ということだと考えてます
江川
更につっこむと、何故お金にならないのでしょうか?
渡利
さっきも話に出ましたが、靴は皆さんが思っている以上に多くの人の手で作られています。つまり部材が出来上がるにはそれを加工する手間や技術に対して工賃(人件費)もかかるということ。工賃は国や地域で異なるので、日本とアジアを比べると当然アジアの方が安いです。結果、国内で靴をつくると、海外で作るより相当高いものになってしまうんです
江川
なるほど、ざっくりいうと人件費が原因で価格競争に勝てないということか…
渡利
そうすると、国内工場に依頼するブランドは少なくなり、売り上げが立たないので国内で靴を作る場所は増えることはなく、減っていくことになります
江川
それは分かるのですが…古くから日本に大きい靴工場を持っているメーカーは除いても、日本製の靴はブルーオーバーだけでなくちらほら目にしますよね。しかも、ブルーオーバーより安価なことがもっぱらです
渡利
そうやね。靴はノックダウンという、アッパーとソールそれぞれ半製品の状態で輸入して、国内でアッセンブリして靴に仕上げる手法があります。それを行う製靴工場(靴を作り上げる最終工程)は比較的規模が大きいので国内にもまだ存在しているんです
江川
その製法でも、メイドインジャパンはメイドインジャパン、なんですね
渡利
そうです。これの意味するのは靴としての品質の保証が最終工程の「製靴」にあり、日本のメーカー(工場)が最終工程を担うことで、その品質を担保しているという証にもみれます。僕たちの商品はアッパーもソールも国内で作っていますが、お客様から見れば同じメイドインジャパンとなります
江川
なるほど。そんな中で、ブルーオーバーは可能な限り全工程を日本国内で生産することにこだわっている
渡利
正直すべてを国内で作りあげる意味はどこにあるのかを考えなければならないと思っています。98%が輸入になっているアパレルを見ても、時代の流れは変えることは出来きないでしょう。その上で僕たちがすべきアクションがなんなのかを考えることが大事です
江川
やはりその、次のアクションを考える時、ブランドスタート時の地場産業に対する思いというのが大きく占めてくるのでしょうか
渡利
僕はノックダウンも一つの選択肢としてはアリだと考えています。ただ、少なくなっているとはいえ、国内に裁断、縫製場、革漉き、インソール、副資材問屋などのこまかなことをされている方たち、職人さんがいる限り、できるだけ国内製造にこだわっていきたいですね。先人たちが過去からつないできた文化的財産を、残せるなら残していきたいです。その活動こそがブランドの意味とも考えているので
江川
ブランド内で渡利さんや靴職人の東さんが材料調達や工場との調整に手間暇をかけているのを見ると、「ブルーオーバーのように靴作りのほぼ全工程を国内で行うことは、ちょっとやそっとじゃ真似できないだろうな。だからブルーオーバーは唯一無二のブランドだな」と思う反面、もっと盛り上げないと工場が少しずつ衰退していくのを止められないんじゃないか…と不安になるのも正直なところですが…。
話しを少し戻して、原文の続きを見ていきましょう
…それはなぜか。
私は1980年代後半から2000年まで、まさに日本がモノヅクリ大国と呼ばれていた時代に生まれ育ち、自らも製品のデザインという仕事に携わり様々な工場に足を運んできました、そんなこれまでの日本を支えてくれた製造業に対して恩返しをしようと考えているからです。
江川
さっきの話しと少し重複しますが、何故ブルーオーバーが可能な限りの工程を日本で行っているかを説明している部分ですね。この辺りを読むとブルーオーバーは「靴だけ」を作っているのではなくて、正に「取り組み」とか「チャレンジ」って言葉が似合うな、と感じます
渡利
やっぱり子供のときの原体験って、自身のアイデンティティにもなっているなぁとも思うんです。そういった意味でいうと、80年代~00年はモノの時代だったわけです。あの頃はモノに囲まれて、ワクワクさせてもらって、刺激をうけて育ちました。前職がプロダクトデザインを目指したのもそういった時代背景に影響されていた結果だろうね
江川
わたしは90年代生まれなので、そんな時代の残り香を微かに感じた覚えはあります笑
渡利
モノづくりの現場(工場)は立ち入ったときの機械のにおいや、風景もすごい好きで刺激を受けます。恩返しと書くと大層に聞こえますが、ただ純粋に身近にモノヅクリの場所を失いたくないと考えている。ただそれだけだと思っています。失わないために、何ができるのか。そういった意味ではブルーオーバーは靴だけでなく、取り組みやチャレンジといった言葉も兼ね備えているとは思うね
江川
そうですね。わたしもブランドの一員として、果敢にチャレンジし続けたいです
今回、コンセプト文中の「ブルーオーバーのはじまり」と「靴作りの背景」を、執筆者である渡利と読み進めました。
「ブルーオーバーのはじまり」では、ブランドをスタートさせるきっかけとなったモノの取り巻くさまざまな消費的サイクルに対する疑問と、国内の靴作り産業の衰退していく背景が関係していることがわかりました。
そして続く「靴作りの背景」では、国内において、いまだ多くの人の手によって作られている靴づくりが、時代の流れとともに失われそうな危機感を抱きながらも、可能な限りすべてを国内でつくることの意思を受け取ることができました。つくる場所を失いたくないとする、渡利の思い。そのこだわりを持ち続ける意味はどこにあるのか。
次回は、渡利が影響を受けたとする「民藝運動」を一緒に読み解くと共に、その思想がブルーオーバーのデザインにどのようにあらわれているのかを見つけていきたいと思います。